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「羽入-折原論争への参入と応答:論争の第二ラウンドへ向けて」

 

橋本努

(はしもとつとむ 北海道大学大学院・経済思想/政治哲学)

2004/01/20version

 

 

 羽入-折原論争の第一ラウンドに対する拙論「ウェーバーは罪を犯したのか」『未来』(20041月号)では、私はなるべく、個人的な評価を挟まずに論争を整理したつもりである。なぜ評価を抑制したのかと言えば、それは今後の論争への参加を、できるだけ多くの人々に呼びかけたいからである。この目的が果たされるならば、私は次に、自分なりの論争評価を下す責任があるだろう。以下に私なりの評価を述べよう。

 

 

【第一ラウンドに対する評価】

羽入-折原論争の第一ラウンドを端的に評価するならば、「折原優勢」である。しかも「かなり優勢」であると私は見ている。羽入氏は今後、もし折原氏の反論に再反論しなければ、アカデミズムの内部ではほとんど評価されなくなるかもしれない。折原氏の反論はそれほどのインパクトがある。

加えてもう一つ、折原氏の反論書『ヴェーバー学のすすめ』(未来社、2003年)は、すさまじい知的刺激に満ちていることを、ここで明言したい。折原氏のこれまでの著作の中で、この著作は最も独創的な部類に入るにちがいない。本書の貢献は、ウェーバー研究における一つの驚異的達成であるといっても過言ではあるまい。さらに言えば、折原氏は論争の名手である。見習うべき反骨精神の持ち主である。正直に言って、私にはこれほどの反論が可能であるとは思えなかった。私は当初、論争はおそらく、羽入氏とウェーバー研究者たちのあいだで空回りするのではないかと危惧したが、折原氏は論争の争点を明確にして、しかもテキスト内在的に論争しうる土俵を築くことに成功している。この点は高く評価してもしすぎることはないであろう。

 

 

【私自身のスタンス】

 以上の評価を述べた上で、ここで本論争に対する私自身のスタンスを明確にしておきたい。拙著『社会科学の人間学』(勁草書房1999年、18頁)において、私は狭義のウェーバー研究と広義のウェーバー研究を区別し、自分の研究をもっぱら広義のウェーバー研究に属するものだと位置づけた。またその場合、羽入氏の研究にも触れて、そのウェーバー批判のもつ意義が、ウェーバー業界を前提とした消極的なものにすぎないと意味づけた。羽入氏の研究は、第一義的には、狭義のウェーバー研究者に向けられたものであるから、私はこの論争において部外者だということになる。しかし、論争の社会的効果が大きなものとなれば、私もまた論争の「場外ラウンド」に巻き込まれよう。というのも私は、ウェーバーから学び、また折原浩先生(実際に大学院での講義を受講したという意味で、ここでは先生と呼びたい)からも多くを学んできたからである。本論争は、その場外ラウンドでは、ウェーバーを読むべきか、教えるべきか、研究において参照すべきか、という教育・研究の実践的な問題にまで波及している。この点では私も応答責任があるだろう。

 本論争の行方について、私は現在、次のように考えている。まず、論争の第二ラウンドにおいては、狭義のウェーバー研究者すべてが応答責任を負うであろう。また羽入氏は、専門である文献学的な研究を超え出て、社会(科)学者として、折原氏の諸々の問題提起に応答する責任を負うであろう。さらに、論争の土俵の外では、広義のウェーバー研究者(あるいはウェーバーから学んできた人々)が、何らかの応答責任を負うであろう。以下に述べる事柄は、私のコミットメントを含んだ応答である。

 狭義のウェーバー研究においては、ウェーバーの学問業績がすぐれていることを前提として、その再構成や再解釈や批判の営みがなされてきた。しかし私が言うところの「広義」のウェーバー研究は、ウェーバーの知的貢献を素材としつつ、そこからウェーバーを理論的に超えることを目指している。アインシュタインがニュートン理論を超えたように、またポパーが帰納主義の方法を超えたように、理論家はそれ以前の知的蓄積を利用しつつ、批判的超越を試みる。そうした批判的超越の立場からすれば、今回の論争は副次的なものとみなされねばならない。論争の個々の争点は大変興味深いものであるが、評価対立の中心は、「ウェーバーの権威維持かそれとも権威失墜か」という関心に向けられているからである。権威の維持や失墜といった関心は、批判的超越の立場にはない。知の成長を志向する批判的超越の立場は、対峙すべき相手に対して、深い敬愛とチャレンジ精神の両方を併せ持たねばならず、ある権威を擁護したり、憎悪を持ってこれを否定したりしてはならない。要するに批判的超越者は、権威維持や権威打倒といった営みには関心がないのである。むしろ権威は、知の成長によって乗り越えられるべきものとして意味づけられる。

この点で、折原氏のこれまでのウェーバー研究は、ウェーバーを知の成長の基点=土台として再構成しつつも、そこから新たな知の成長を企てるものとして、高く評価されなければならない。近年の折原氏の研究はテキスト研究という「土台の再構成」に重心を置いているが、しかし氏の諸々の独創的貢献(とりわけ私が「可能主体」と呼ぶウェーバー解釈)を過小評価してはならない。

これに対して羽入氏の貢献は、知の成長を志向するよりも、むしろ学的権威が無用な抑圧へと転化する場面を問題にしていると言えよう。一流のウェーバー研究者たちが羽入氏の問題提起を真正面から受け止めなかったとしても、それはある意味で、適切な態度であったかもしれない。というのも、「私はウェーバー崇拝者である」とか「ウェーバーという巨像を信仰している」などという一流の研究者は、実際にはいないからである。羽入氏の問題提起は、これにどう応答してよいのか、ウェーバー研究者たちに難しい判断を要求しているように見える。羽入氏は次のように言う。「巨人の言葉を引用し、自分の論文にきらびやかに散りばめ、巨人の作り上げた概念を再度説明する、ただそれだけで自分もまた巨人とともに学問をしているかのような気分に陶酔し浸り切る……それが許されてきたというまさにその点において、この巨人はわれわれの視野を確実にふさいできたのである」(羽入書、264頁)。ここで羽入氏が批判しているのは、アカデミズム一般に関わる問題であると同時に、二流・三流研究者たちに向けられたものであるだろう(仮に一流の研究者がいない場合にも、である)。こうした批判に対して、いったい誰が応答責任を負うのか。これは実践的な意味で難しい問題を引き起こす。

しかし論争の間接的な効果が、狭義・広義に関わらず健全なウェーバー研究のすべてを脅かすことになれば、研究者たちは論争の焦点を多少ズラしてでも、さまざまな観点からこれに応接する必要があるだろう。そこで私は、以下に二つの点から応答したい。第一に、羽入書に対する内在的な検討と評価であり、第二に、羽入-折原論争の社会的意義をめぐる考察である。前者は、とりわけ『倫理』における「フランクリン」の位置づけの問題であり、後者は、「知的祭り上げ」と「詐欺師の誘惑」の問題、および、「学問のオルターナティヴ探し」の問題である。

 

 

【フランクリンをめぐる問題1:「羽入書」第三章の検討】

 では最初に、羽入書の検討をはじめよう。ただし、「羽入書」の前半、すなわち第一章と第二章に関しては、私は今のところ、折原氏の周到な反論に付け加えることはないので、ここでは後半に関してのみ、検討を加えたいと思う。

第三章において羽入氏は、ウェーバーのフランクリン論を次のように取り上げている。すなわちウェーバーによれば、フランクリンの道徳は、たんなる「現実主義的・功利主義的傾向」の処世訓に還元されないような、「資本主義の精神」という独特な特徴をもっている。正確に言えば、ウェーバーはフランクリンという人物の生き方を素材にして、単なる処世訓に還元されないような、資本主義の精神という理念型を構成している。そしてウェーバーはこの「資本主義の精神」という理念形を構成する過程で、フランクリンが「神の啓示」に言及していることを傍証としている。しかし羽入氏によれば、『自伝』における「神の啓示」へのフランクリンの態度は、現実主義・世俗主義・功利主義の諸特徴を示しているにすぎないという。つまり、フランクリンが自伝で述べるところの「神の啓示」は、たんなる「現実主義的・功利主義的傾向の処世訓」に還元されるというのである。羽入氏は次のように述べる。

 

「ヴェーバーは『[フランクリンの]自伝』の一体どこから“フランクリンの倫理は個々人の『幸福』や『利益』をおよそ超越している”などという自分の主張の根拠となる部分を見出してきたのであろうか」(180)。「『自伝』におけるフランクリンの叙述が理念型におけるそれ[資本主義の精神]と合致しないとするならば、……フランクリンは厳密には“資本主義の精神的”ではなかったという証明がなされたはずだったのである」(187)。「この理念型は、素材とされた『自伝』からもはや大きく隔たってしまっており、……フランクリン自身の素顔とはもはや似ても似つかぬものとなってしまっているのである。」(186)。「ヴェーバーによる『資本主義の精神』の理念型のフランクリン資料による検証は、理念型の検証の名に値しないものに過ぎなかった」(189)。

 

このように羽入氏は、ウェーバーのいう「資本主義の精神」という理念型が「フランクリンの素顔」に迫るものではないとして、理念型の構成とその検証過程に問題があると指摘する。

しかし羽入氏のこの主張には、およそ四つの難点があると私は考える。

第一に、構成された理念型は、「フランクリンの素顔」に似ている必要はない。理念型はある一面を鋭く構成することに、その理論的意義があるからである。理念型は、デフォルメされた抽象絵画のようなものである。それは素顔に迫る必要はない。

第二に、かりに「資本主義の精神」という理念型がフランクリンの言説によって検証されなければならないとしても、羽入氏が否定しているのは、ウェーバーが言及しているところの「フランクリンにおける神の啓示」の意義であって、それ以外の部分の意義を否定するほどの論拠を提示していない。具体的には、羽入氏は『倫理』における以下の文章の意義を否定するだけの論拠を挙げていない。

 

「そればかりか、この『倫理』の『最高善』(summum bonum)ともいうべき、一切の自然な享楽を厳しく斥けてひたむきに貨幣を獲得しようとする努力は、幸福主義や快楽主義などの観点をまったく帯びていず、純粋に自己目的と考えられているために、個々人の『幸福』や『利益』といったものに対して、ともかく、まったく超越的なまたおよそ非合理的なものとして立ち現れている」(大塚訳47-48頁)。

 

ウェーバーは以上の文章(にみられる考察)を、「資本主義の精神」という理念型を構成するための論拠の一つとしている。羽入説は、この文章から「資本主義の精神」という理念型が構成しうることを否定していない。むしろ別の論拠を否定しているに過ぎない。すなわち、フランクリンにおける「神の啓示」は理念型を構成するための素材や論拠たりえないという批判である。

第三に、フランクリンにおける「神の啓示」について、ウェーバーは『倫理』の中で、一方では「功利的な傾向」として言及し、他方では「反功利的な傾向」として言及しているという矛盾がある。羽入氏は後者の解釈を否定するが、氏の批判は、ウェーバーの理念型構成の過程を検証するというよりも、むしろ、ウェーバーのテキストに内在する矛盾を指摘するものであろう。この点に関して、私は、ウェーバーの理論を洗練化する方向に、テキスト内在的な矛盾を解消する道を見出すことができると考える。そのためには、次の三つの理念型を区別することが望ましい。

 

(1) 善悪の実践を規範的に内面化していない功利主義。(善悪の行為の外観を重視して、有用性や快楽のために役立つかぎりで道徳的に振舞う。)

(2) 善悪の実践を規範的に内面化した功利主義(善い行いが「命令」されるのはそれが有用だからであり、ある行為が「禁止」されるのはそれが本来有害だからである、と考える。ここでは「命令」や「禁止」の普遍化と精神的内面化とが、功利的に有用であると見なされる)。

(3) 幸福主義や快楽主義の観点をまったく持たない功利主義(例えば、貨幣獲得を自己目的として、快楽や享楽を厳しく斥けるような実践。これは貨幣という功利を求めるが、それが快楽や享楽に結びつかない点で「反功利主義」と言ってもよいだろう)。

 

以上の三つのなかで、「資本主義の精神」に合致する理念型は、(3)である。また、いわゆる功利主義とみなしうるのは、(1)である。これに対して(2)の立場は、功利主義とも言えるが、しかし「資本主義の精神」の一特徴とも言えるような、両義的な特徴を備えている。そしてウェーバーもまた、(2)の考え方を曖昧かつ両義的に扱っている、と解釈することができよう。すなわち、一方では功利的な傾向をもつ「改信の物語」(『倫理』473行目)としてであり、他方では「神の啓示」(『倫理』4712行目)としてである。私の考えでは、ウェーバーは「資本主義の精神」という理念形を構成する際に、(3)(1)をドラステックに対比させた結果、その中間にある(2)の考え方を、両義的に位置付けてしまっている。われわれはこれを、理論的に不充分な点として受け止めて、むしろ理論全体の整理と更新(バージョン・アップ)を図るべきではないだろうか。

羽入氏は、ウェーバーにおける(2)の扱い方が問題を孕んでいると批判するが、しかし私たちは(2)(3)の区別を概念的に明確にすれば、ウェーバーの理論を更新することができる。具体的には、フランクリンにおける「神の啓示」を、功利主義と「資本主義の精神」の中間として位置付ければよいのである。このように扱えば、羽入氏のように、(2)の問題性を指摘することから(3)の疑問視や否定に至る必要はない。

 第四に、羽入氏は、この第三章においては、フランクリンの生き方が功利的であり、非合理的な要素を含んでいないとみなす立場に立って、ウェーバーの理念型構成を批判している。しかし第四章では逆に、フランクリンの生き方がカルヴィニズムの宗教倫理を多分に含んでいるとみなす立場から、正反対の議論を展開している。ということは、羽入書の第三章の議論は、同書第四章の議論によって論駁されるということになるのではないだろうか。

 以上、私は四つの観点から羽入氏の立論を検討してきた。まとめると、ウェーバーは「資本主義の精神」という理念型をフランクリンのテキストを素材に構成したが、しかしその構成の仕方の妥当性については――なるほど羽入氏の指摘するような「直接の検証」がなされていないという難点を持つとしても――、その構成を否定ないし拒否するほどの議論が羽入氏によって提出されているわけではない(むしろ羽入書の第四章は、この問題に対して間接的な検証としての効果をもつかもしれない)ということである。

 

 

【フランクリンをめぐる問題2:「羽入書」第四章の検討】

 次に、羽入書の第四章におけるフランクリン問題を検討してみよう。第四章では、「資本主義の精神」と「古プロテスタンティズムの宗教性」とが、内的な親縁関係をもつ、というウェーバーの主張が検討されている。羽入氏はまず、次のように問題を提起する。

 

「ヴェーバーは、他ならぬ『資本主義の精神』を手掛かりとして今から資本主義的営利活動と古プロテスタンティズムの宗教性との“内的親縁関係”を見出さなければならないにもかかわらず、しかしながらその『資本主義の精神』は次のような形に構成されなければならない、と述べているのである。いかなる宗教的なものもその内には含まれてはいぬ形で、すなわち、全ての宗教的なものが剥奪されている形で構成されていなければならない、と。」(羽入書、203-204頁、傍線は引用者による)

 

以上の問題提起において、羽入氏は大きな誤解をしていると私は思う。羽入氏は、「資本主義の精神」という理念型が「いかなる宗教性も含まない形」で構成されなければならないとみなしているようだが、これは誤りであろう。ウェーバーは、「宗教的なものへの直接的な関係をまったく失っており」(『倫理』大塚訳40頁、強調はウェーバーによる)と述べているが、ここで重要な点は、「直接的な関係」を失っているということであり、「まったく」という強調箇所ではない。ウェーバーはここで、宗教の「間接的な関係」は失われていない、と見なしているとみるべきである。実際、ウェーバーの『倫理』は、宗教的モメントの歴史的因果関係をたどることに、固有の課題がある。ところが羽入氏は、この「間接的な関係」の可能性を想定せず、「直接的関係の喪失」を「あらゆる宗教性からの解放」と理解して、これを繰り返し批判している(例えば、206, 219, 221, 224-225頁)。すべてこうした批判は、的外れであると私は考える。

 なおまた、ウェーバーは別のところで、「ただフランクリンのばあいには、宗教的基礎づけがすでに生命を失って欠落している」(『倫理』大塚訳364頁)と述べているが、これは、フランクリンが完全に無宗教になったというのではなく、ウェーバーはただ宗教的な「基礎づけ」がなくなったと言っているだけで、そこには当然、何らかの「宗教的モメント」が存在すると想定されよう。この点でも羽入氏は、ウェーバーの慎重な議論に軽率な批判を投げかけているように見える。実際、ウェーバーは、宗教的なモメントが、古プロテスタンティズムから資本主義の精神に至る歴史的因果連関において、いかに変容したのかという問題に関心を寄せているのであり、ウェーバーの問題設定は、この点において明確である。(なお折原氏は現在、論争の第二ラウンドにおいて、『倫理』の全論証構造を再構成するという準備をしているが、これは羽入氏の第四章の議論に対する真っ向からの批判を意味することになるであろう。)

 他方で羽入氏は、次のようにもウェーバーを批判している。すなわち、ウェーバーは「資本主義の精神」という理念型を構成する際に、そこにあらかじめ「古プロテスタンティズム的なもの」を含めることによって、「資本主義の精神」と「古プロテスタンティズム」のあいだの「内的親縁関係」を論証するという不当前提を犯している、と(羽入書、206頁)。言いかえれば、ウェーバーは「資本主義の精神」という理念型の特徴に「古プロテスタンティズム的なもの」を含めたからこそ、「資本主義の精神」と「古プロテスタンティズム」との内的親縁関係を説明できたのであり、これは当初の議論の前提に反する、というのである。なぜなら当初の議論の前提では、「資本主義の精神」は「宗教的なものへの直接的な関係をまったく失って」いると見なされたからである。およそ以上のように、羽入氏はウェーバーを批判する。

 羽入氏のこの批判に対しては、次のように反論することができよう。すなわち、「資本主義の精神」という理念型には、当初から宗教性のモメントが含まれている。しかしそれは、古プロテスタンティズムのそれとまったく同じものではなく、間接的な影響関係を含むものであるにすぎない。羽入氏は両者の宗教的モメントをともにカルヴィニズムの予定説であるとみなしているが、しかし折原氏が的確に批判するように、両者の宗教的特徴は、意味的に異なる。(これについては拙稿「ウェーバーは罪を犯したのか」15頁においても言及した。)そして両者の宗教的モメントの違いこそ、ウェーバーが『倫理』において説明しようとした課題の中心であったのであり、羽入氏はこのテーマを見失っているようにみえる。

おそらく羽入氏は、次のようにウェーバーを批判することで、ウェーバーを犯罪者とみなしているのであろう。すなわち、ウェーバーは「古プロテスタンティズム」と「宗教性をまったく含まない『資本主義の精神』」のあいだの内的親縁関係を説明するという問題を立てたが、この問題を解くにあたって、こっそりと、「資本主義の精神」という理念型の特徴に「古プロテスタンティズム」と同様の「カルヴィニズムの神」を忍ばせ、「フランクリンからいっきょにルターに遡る」ことをしてしまった、という推測である。この批判はしかし、的外れである。その理由を繰り返し述べるならば、ウェーバーは『倫理』において、「古プロテスタンティズム」と「資本主義の精神」のあいだの宗教的モメントの違いを歴史的因果連関の追跡によって説明しようとしたのであり、その場合、資本主義の精神にみられる宗教的モメントは、古プロテスタンティズムにみられるカルヴィニズムの神とは性質が異なる。そもそも『倫理』における中心課題は、歴史の因果連関を説明することであった。「古プロテスタンティズム」と「資本主義の精神」の「内的親縁関係」なるものは、「論理的に直接な関係」ではなく、歴史的な因果連関、しかも「意図せざる結果」を含んだ連関の問題である。羽入氏はここで、「内的親縁関係」という言葉の意味を、歴史学的方法の観点から的確に捉えるべきであったのではないだろうか。

 以上の検討から、羽入氏の次の主張は却下されるべきだろう。すなわち、「……彼[ウェーバー]はフランクリンからいっきょにルターへと遡るというこの自らの着想の余りの鮮やかさにとらわれてしまい、無謀にもこの構想のままに突き進むという学者としては犯してはならぬ無理を犯した」(羽入書、239-240頁)という判断である。ここでいう「学者としては犯してはならぬ無理」というものを、もし羽入氏が「犯罪」と呼ぶならば、ウェーバーはそのような犯罪を犯してはいない。

 もう一つ、羽入氏の次の主張もまた却下されよう。「むしろヴェーバーがここですべきであったことは以下のことであったのである。その心情が、“非宗教性”という観点から見た場合には、まだ十分には“資本主義の精神的”とはなっていなかった例として、すなわち、そうした『資本主義の精神』への移行期の典型的経過例を示すところの理念型としてフランクリンを挙げるべきだったのである」(羽入書225頁)。ここで羽入氏は、フランクリンが『聖書』を引用する点で宗教的心情を持っているのに対して、「資本主義の精神」は「全ての宗教性を欠いた」心情を理念型化したものだと見なしているようだが、これは「資本主義の精神」という理念型の理解に関して誤りである。みてきたように、「資本主義の精神」という理念型は、宗教性のモメント(世俗的な功利主義によっては合理的に説明できない要素)を含んでいる。それは、前節における三つの規範的立場の(3)の特徴、すなわち、幸福主義や快楽主義の観点をまったく持たない功利主義(=「反功利主義」)である。

 なお、羽入氏が指摘するように、大塚久雄は『倫理』の訳者解説において、フランクリンの文章には「どういうわけか」「ピュウリタニズムないしカルヴィニズムの思想的残存物がいっぱいつまって」いると述べているが、しかしここでいう「思想的残存物」の存在は、フランクリンの倫理と古プロテスタンティズムの倫理が同一であることを意味しない。またかりに、両者が同じような特徴をもつとしても、それは両者の主要な特徴が異なることを妨げない。したがって大塚久雄の指摘は、『倫理』におけるウェーバーの立論を否定するような性質のものではないだろう。

 以上が羽入書に対する私の応答である。総じて言えば、羽入書の第三章と第四章の立論は、ほとんど成功していないように思われる。文献学的に見れば、羽入氏の研究はウェーバーのテキストに対する興味深い精査を多々含んでいるが、そこから引き出される結論は過剰であり、論理的に支持しえない。羽入書の後半に関するかぎり、羽入氏がウェーバーを犯罪者と判定する根拠は薄弱である。その理由はおそらく、理念型の構成が『倫理』の中心テーゼや方法の問題といかなる関係を持つのかについて、配慮を欠くからではないだろうか。この問題をクリアしないかぎり、氏の文献学的研究がもつインプリケーションは、消極的なものに留まらざるを得ないであろう。

 

 

【「知的祭り上げ」と「詐欺師の誘惑」】

ここで羽入書に対する内在的な検討をいったん終えて(あるいは中断して)、以下に間接的な、いわば野次馬的な応答を試みてみよう。「狭義のウェーバー研究者」を自認しない私の立場からすれば、実は、間接的な応答のほうがより切実である。羽入氏の問題提起は狭義の文献学的論争を超えて、アカデミズムの営為を総体として見なおす契機を与えているからである。

私たちはこれまで、例えば、マルクス、ウェーバー、レヴィ=ストロース、フーコー、ハーバーマスなどの知の巨人たちを、時代や流行に応じて祭り上げたり、あるいはこけ下ろしたりしてきた。内容の難解度から言えば、他の巨人と比べてウェーバーの著作が抜きん出ているわけではない。羽入氏のウェーバー批判は、ウェーバーに固有の問題というよりも、むしろ知の巨人たちに付きまとう一般的な問題、すなわち崇拝と冒涜という人格的評価の問題であるだろう。凡人の人格に対しては、崇拝や冒涜といった道徳的評価は生じ得ない。

そこで問題となるのが、「知の巨人を祭り上げること」の社会的意義である。実際私たちは、「知的祭り上げ」というものが、それがいかに非合理的であるとしても、知の成長に貢献する機能を果たすことを知っている。祭り上げによって読む機会を得た読者が、知の巨人たちと真摯に向き合うことによって、やがてそこから、新たな知の成長が生まれるからである。実際私の場合も、学部生の時分には、内田芳明氏のウェーバー講義から多くの恩恵を受けた。しかしその後に理解したことは、ウェーバーが知の巨人であるという祭り上げは、入門者のための誘惑的言説に過ぎず、アカデミズムの内部ではそれほど流通していない言説だ、ということである。(もしアカデミズムが衰退すれば、「知的祭り上げ」の誘惑言説のみが自由に氾濫することになるかもしれない。)

他方で「知的祭り上げ」は、知識人と大衆のあいだに階層的な分断を生み出す源泉にもなっている。すなわち、知の巨人たちの言説を理解する知識人と、それを十分に理解できず、したがって知的ルサンチマンをいだく大衆のあいだの精神的な不和である。(ここで大衆とは、知識人に憧れつつも挫折を味わう人々、という意味である。)知識人は、難解なテキストを理解する能力によって、自らを精神的に特権的・貴族主義的な人間であると自己認識しうるだろう。これに対して大衆は、そのような特権的・貴族主義的なメンタリティを持った人々の自己認識を妬ましく思うだろう。一方は自己と知の巨人の両方を肯定し、他方は自己を肯定するために知の巨人を否定する。

知識人と大衆とのこの軋轢、すなわち、前者の特権意識と後者のルサンチマンという心情的対立は、およそ次のような二つの方途によって解消しうる。すなわち、一つには「大衆による知識人文化の殲滅」であり、もう一つには、反対に、「知識人による大衆の啓蒙的包摂」である。前者は「アカデミズム不要論」や「精神的貴族主義に対する道徳的貶価」に至る。そして学者の社会的影響力を疑問視し、学者世界の縮小を求めることを要求するであろう。これに対して後者の企ては、「入門書や教養書による絶えざる知の誘惑」を企てることによって、知識人文化を再生産しようとする。そしてその際、知識人はさまざまな「知の巨人たち」を祭り上げることに荷担するだろう。例えば「マルクスはすごい」、「ウェーバーはすごい」というエピソードを紹介することが、テキストを十分に理解しない人々の不満を、尊敬の念へと転化することに資するであろう。知の巨人たちを祭り上げることは、知識人の誘惑戦略である。知識人は自らの営みの領域を正当化したり発展させるために、初心者を誘惑するデーモンと結託しなければならない。

 羽入-折原論争は、終極的には、こうした「知識人と大衆の拮抗関係」という問題に至りつく。羽入の立場は、アカデミズム不要論(したがって誘惑戦略不要論)と親和的であり、これに対して折原の立場は、アカデミズム有用論と親和的である。では私はどちらの立場に立つのかと言われれば、大衆を啓蒙するための知の誘惑が必要であるという理由で、後者の立場をとる。知の成長を一つのコアに据える私の思想的観点(成長論的自由主義)からすれば、アカデミズムが果たす機能は有効である。政治や経済と同様に、知の領域においても、誘惑の言説が新たな創造をかきたてることが認められよう。そして知の成長を促進することは、結果として社会全体の富を豊かにすることに資するであろう。

以上のことは、私が特殊近代的な啓蒙主義者であることを意味しない。ポストモダンの言説においても、同様の啓蒙が試みられているからである。例えば、東浩紀著『動物化するポストモダン』(講談社現代新書2002年)では、「動物化」していく人々に対する理性の啓蒙が試みられている。啓蒙のプロジェクトは、近代思想とポスト近代思想の両方に共有されていると見るべきである。

また私はここで、既存のアカデミズムをそのまま肯定しようというのではない。知の成長を企てている学者はそれほど多くないからである。アカデミズムを知の成長のための装置として十分に機能させるためには、それに相応しいエートスや誘惑の戦略が必要となる。この点から付言すれば、私は、ウェーバーやその紹介者たちが詐欺師であってもかまわない、と考えている。実際にはそうではないのだが、しかし例えば、「知への愛」を人々に啓く哲学者として、私たちは、ヤスパースのような有徳者よりも、ニーチェやハイデガーやサルトルのような、詐欺師的感性にすぐれた哲学者を愛好するのではないだろうか。また哲学だけでなく、どんな分野の学問でも、初心者である学生たちは、有徳な学者の書いた入門書よりも、不良少年的な魅力のある学者の書いた入門書を密かに愛するのではないだろうか。

いずれにせよ、詐欺師的な魅力を持った学者に騙されて「知への愛」をもつに至ることは、羽入氏の言うように「不運」なことではなく、私はむしろ「幸運」なことだと思う。知の入門には倫理的なパラドクスがある。詐欺師的な誘惑に騙されてはじめて、知への愛を掴む、というパラドクスである。重要なのは、このパラドクスの中にうまく入りこみ、そしてそこからうまく抜け出ることではないだろうか。

 およそ政治であれ経済であれ文化であれ、詐欺師的な(あるいはトリック・スター的な)幻想や魅力がなければ、それに固有の発展はうまれない。この点で、諸々のシステムは道徳のシステムから分化していると見なすことができる。諸システムが分化しながらも豊穣なものとなることを欲する「成長論的自由主義」の立場からすれば、誘惑の戦略や詐欺師の存在は、必要である。知的誠実性という美徳について言えば、拙稿「ウェーバーは罪を犯したのか」において述べたように、それは文献学的な一次資料の裏づけよりも、実践的な価値評価問題について、その言語化を押し進めることでなければならない。私は、資料操作や詐欺師的誘惑という問題が、知的誠実性という美徳にとっては瑣末な事柄だと考える。したがって羽入氏が提起するウェーバー=詐欺師説は、知的誠実性の中心問題とは区別されるべきであり、またかりにウェーバーが詐欺師的特徴をもつとしても(そのようなことは折原氏の反論によって否定されているが)、私はそうした事柄を道徳的に糾弾すべき問題ではないと考える。

以上が、私の思想的スタンスから導かれる評価である。「知的祭り上げ」と「詐欺師の誘惑」は、知の成長のための導入レベルにおいて必要である。批判は、別の祭り上げと誘惑を対抗させることでなければならない。もっともこうした戦略に関する問題は、羽入-折原論争にとって本質的な事柄ではないだろう。私は自分のスタンスから間接的に、問題をずらして場外から応答することになった。

 

 

【学問のオルターナティヴ探し】

 前節では、いかにして大衆を知的に誘惑しながら「知の成長」を企てるか、という問題を検討した。そしてそのためには詐欺師の誘惑や幻想が必要であると私は主張した。例えば、初心者である学部生に対して、マルクスやウェーバーやフーコーなどの知の巨人たちを、その幻想や権威の効果を利用しながら紹介することには、やはりそれなりの学習効果があるだろう。もちろんこれを多用すると厭みな人間になる。

しかし別の問題として、例えば現在、ますます増加する大学院生たちのニーズに合わせてこうした知の巨人たちを論じることは、いかなる意義を持つだろうか。博士課程に進学した大学院生のうち、職業としての学者や研究者に従事することのできる人数の割合は、この20年間のあいだに激減している(博士課程在籍者数は、この20年間で約三倍になった)。分野によって異なるが、学者として職を得る率が10%以下、といったところもある。こうした現状において問題となるのは、初学者への誘惑と詐欺師の役割ではなく、学問の誘惑に魅了された人々のその後の神義論である。学問に魅了された人々は、学者になるのでなければ、いかにして学問のオルターナティヴとなる職業を見つけるのか。また、いかにして学問の魅力に対して主観的・個人的に折り合いをつけるのか。こうした事柄はとわけ、大学院生たちの切実な関心となっている。

今後日本社会において、もし学者の総数よりも、大学院の途中で学者の道を諦めた人々の総数が多くなるならば、私たちの知的・文化的世界は、もはや学者主導のものではなくなるだろう。学者的なるもののシンボルであるウェーバーの貢献は軽視され、その代わりに例えば、職業学者ではなかったマルクスが、非学者系知識人のシンボルとなるかもしれない。私たちの社会は現在、知識社会の到来と同時に学者になれない大学院生数の増大によって、学者系とは異なる文化・知識世界を豊かにしていくというニーズに直面している。そして羽入氏のウェーバー批判は、こうした反学問的な知的文化を肯定する契機として受け止めることもできよう。実際、羽入書は、学問にルサンチマンを抱く人々の「ルサンチマン処理財」として消費されたという側面がある(井上芳保氏のいう「ルサンチマン処理産業」は、学問の分野にもそのニーズを発見するはずである)。

もっとも羽入氏は、他人のルサンチマンを処理してあげるために研究を進めているのではないだろう。しかし今後、学問のオルターナティヴ探しや学問上のルサンチマン処理というニーズが増えるならば、いったい誰がこれに応えるのか。またこうした文化社会の変動を、私を含めて職業研究者たちはどのように受け止めるべきなのか。ここではこうした問題を提起して、本稿を閉じることにしたい。

 (なお以上の私の応答は、論争の只中にあっては、最終的なものではないことを記しておきたい。)